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こんにちは、ちょっと人に話しにくい内容だったのでたまたまみつけたこちらで相談したいと思います。
私は21歳の学生です。相談タイトルは生きることについて、とありますが私自身は長生きしたいとは全く思ってなくて30代くらいで死にたい、死なないかなと思っています。理由は、親しい人の死に目に遭いたくないからです。親より先に死ぬのは親不孝だといわれますがそれでも私は親や家族が死んでも見送れる気がしません。みんなが健康なうちにはやく死にたいです。どうしたらいいでしょうか。
相談者:らっこ さん 誰にも言えない悩みの相談 2021 7/1

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はじめまして。富田あさひです。(*^-^*)
心理学と栄養を取り入れたカウンセリングをしています。

お悩みについて回答いたします。

家族より先に死んでしまいたいと思ってしまう原因を探る必要があると思います。

赤ちゃんの時は誰でも心は白紙の状態で生きることに必死になっています。お母さんを求めて泣いてアピールしたり、お腹が空いたと泣いてみたり…。

でも、それから様々な経験からいろんな事を学んで考え方や、価値観などが書き加えられていきます。

相談者様が親しい人の死に目にあいたくないと強く思うのは何故でしょう?

もしかしたら、過去に親しい人が亡くなった経験があるのでしょうか?

相談者様がなぜそのような考えになたのかを知って、それが本当に1番いい答えなのかを一緒に考えていくことが必要かなと思います。

よろしければカウンセリングを受けてみてくださいね。
ホームページはこちら。http://cr-asahi.com
回答者: さん 2021 7/6
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はじめまして 臨床心理シランの室です。

私も20歳の頃、「早く死にたい」と考えていた時がありました。あなたとは、考えが違いますが、私の場合は自分が醜く老いる前に死にたい、身体がきれいなときに死にたいという願望でした。かつては、老いることは醜ととらえていたからです。それを受け入れることが嫌だったのです。しかし、生き続けていくうちに、死ぬことが怖くなっいきました。死ぬ存在なら、今を精一杯生きることで、死を忘れていたようです。今は限りある命の尊さを知り、今を最大価値に生きようという生き方に変わりました。以下に、「死」について私見を述べてみます。

人生は不可解なことがいっぱいあります。わからないこともたくさんありますが、はっきりしていることは生ある人は必ず死ぬということです。有名な哲学者ハイディガ―は次のように言いました。「生とは死への行進である」と…。

人間にとって「死」は最も重要なことでありながら、人間は生に驕り、死ぬことに蓋をし、欲望の海に呑み込まれたかのように生きているように見えます。

死について真剣に命を懸けて模索探究してきたのは宗教であり、哲学です。
ここでは、世界三大宗教の一つ、仏教の一部を説明してみます。

仏教にカルマの思想があります。カルマとは業ということであり、行為という意味です。今の世界(今世)で行った個人の行為の集積がカルマになります。そのカルマは、心の無意識世界に一つ残らず貯蔵され、今世を左右するだけでなく、来世の生を規定すると言われています。

例えるならば、ある人が前の日(前世)に苦しんで、1億円の借金をもって眠った(死)とします。眠っている間は借金のことは忘れていますが、眠りから覚めれば(今世・新たな生)、一億円の借金はそのまま残っています。

つまり個人の業は連続しています。割引もおまけもなく、あくまでも自己の行為の責任なのです。自分の行為の責任は自分が担う。それが業思想であり、生命の連続性の基本になっています。生命物理学者も生命保存の法則から、連続性を説いています。

苦しんで死ねば、苦しんだ姿で生まれると言われています。楽しく今世を終えて死ねば、次はまた楽しみの姿で生まれると言うのです。動物的な生き方をすれば、動物に転生するかもしれないのです。怖いことです。これが、生命の三世観を説いた仏教の因果のカルマの教えなのです。

臨死体験1000名近くの方のデーターを基に死の世界を探究されたアメリカの医学者にキューブラー・ロスという有名な方がいます。名著「死ぬ瞬間」「続死ぬ瞬間」という本を著しています。そこには、人間の死ぬ過程が描かれています。一度読まれるとよいと思います。彼女は、仏教の業思想(カルマの法則、生命の連続性)を信じると言われています。業思想とは、自分の生き方や行為に責任をとるという生き方なのです。

 仏教の開祖、釈迦(ブッタ)は王子として生まれ育ちましたが、心に煩悶を抱き、人生に悩んでいたと言われています。

人生は生老病死(生きる・老いる・病になる・死ぬ)という四つの苦しみから逃げることはできない。その四苦に代表される人間の苦しみ…死すべき存在…生と死の解決のために、釈迦は出家し求道の旅に出たのでした。

人生の意味(死)を探究し修行を続けた結果、釈迦は生命の真実、つまり生と死の真相を悟ったと言われています。
釈迦の悟り…生老病死という四苦は無常(一定のところにとどまっておらず、絶えず変化していく)ですが、その背後に常住永遠の生命の法を悟ったといわれています。それが法華経に説かれ、奈良時代、平安時代に貴族の間に広がり、紫式部の「源氏物語」などにも登場しています。

釈迦の生命観…誰人の中にも等しく内在する不可思議な永遠な生命の法…創造的で幸福になっていく生命と知恵と慈悲が具わっている法…自らも幸福になるとともに、周囲の人(自然も含めあらゆる存在)も幸福にしていくという共生、連帯の生命の法とも言われています。いかなる運命や宿命をも転換できる生命の働きをもつという生命哲学です。

人の命は、宇宙の宝すべてよりも尊いとも説いています。この世界で人間だけが、自らの可能性を信じて自らを変えていける「聖道正器」の存在とも言われています。確かに動物や植物は、自らを変えることもできず、本能のまま、生態系に従って生きているようですから。

その尊い人間の生命として誕生してくる可能性をガンジス川の無数の砂の一粒という譬えで説いています。つまり人間生命はかけがえのない尊さをもった存在ということです。

自らに内在する尊極の生命を信じられるかどうか。釈迦は信を強調されたと言われています。簡単に言えば、自分の生命の不可思議な法を信じて行動し生き抜きなさいと教えたのです。

私たちの生命は断絶するものではなく、永遠に続いていくものです。今の生き方がそのまま来世につながる。生きたように死に、そして朝になれば昨日の続きのように生まれると言うのです。だからこそ、今の生を大事にしなけばいけないというのです。

また「袖触れ合うも他生の縁」と言われるように、今、縁して関わっている人、親兄弟、友人などとも、また来世で会えるというのです。カルマの思想からすれば納得ができることです。

あなたは、自分の幸福のため、他者の幸福のために、正しく生きていくことだと思います。その生き方を貫いていけば、やがて生と死の人生おける意味もわかってくると思います。真実を学び人間として向上成長されんことを願っています。
回答者: さん 2021 7/11
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