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こんにちは。自分はどこの出身かわからない人間です。生まれてから小学校の3年まで世田谷、父の転勤で富山、高校3年の時にまた転勤+姉の進路に合わせるため卒業してから4年は京都で過ごしました。今現在は無職で、コロナのこともあり基本は一人で部屋にこもってネットで成功したYoutuberたちを妬みながら見ています。
両親は富山の人で、祖父母がいますが、今年で祖父は91歳、祖母は85歳になります。

自分はなんとか日東駒専レベルの大学を卒業してはいますが、第一志望ではなかったのと、専門学校からの編入でつまらない必修単位の取得ばかりでやりたいことも出来なかったのであまりいい思い出はありません。
高校3年生の時には母親から関東の大学を受けるな、浪人もするな、もし浪人したら国立しか受けさせないし、受からなかったら富山の私大(全てボーダーフリー)しか行かせないとネチネチ言われました。最初から東京の大学に行きたかったのですが、諦めるしかありませんでした。
姉は1浪していましたが、ろくに予備校も行かずネットでゲームをしていたので結局富山大学も落ち、合格した東京の私大を蹴り京都市内にある学費の高い芸大に通って結局留年したあげくどこかデザインの会社に入ったらしいですが、ずっと音信不通なので詳しくは知りません。
一応、自分も高校を卒業してから最初は京都市内にある私大に入り剣道部にも入部しましたが、通っていた理由はニートになったら家から追い出すと母親からネチネチ言われていたからなので半ば仕方なく通っていたのと、そこの監督のセクハラ・パワハラがひどく女子の部員が次々と辞めていっており、男の自分でさえ生理的に受け付けないのもあって、休部扱いのままそのまま大学ごと辞めました。
その後は市内の大学に編入出来る語学系の専門学校に入って卒業しましたが、元々東京で育った自分は関西の人間とは馴染めず、卒業式が終わった後、周りは友達と記念撮影していましたが、自分は特に誰とも仲良くないのでさっさと帰りましたが、母親から学費のことでネチネチ嫌味を言われたので姉のことを言っても擁護するだけでした。
自分だけ進路を決める時に限ってなぜかそのタイミングで引っ越しになり、地元出身の連中と違って不合格になったら後は無いようなあり得ない状況でした。編入試験の一年前に父親がずっと勤めていた外資系の製薬会社を九州で単身赴任している時に突然解雇され派遣になり、ますます選択肢もありませんでした。
以前から留学したいと考えていましたが、これらのこともあり、すぐに卒業して就職しないといけなくなったので、留学することはついに叶わなくなりました。高校も、卒業した大学も国際関係で、クラスメイトやゼミの同期の半分は当たり前のように留学して語学力を身に着けていましたが、今でもこの事を思い出す度にパニックになることがあります。
編入先の大学に入るので自分も京都を離れることになりましたが、姉も母親も引っ越しとなったのですが、自分だけ引越し業者を使わず宅急便で荷物を送らされ、母親は大した荷物じゃないから宅急便で良いとか言われました。頻繁な引っ越しで大事なものがどんどん無くなっていったので、恨みしか無いです。最初は自分だけ京都で一人暮らしの予定でしたので物件選びをしていましたが、結局姉が富大に落ちて京都の芸大に入るので結局無かったことにされ、市内の狭いマンションに3人で暮らすことになりました。姉とだけ一旦富山に戻って荷物を取りに言っていましたが、富山のマンションにいた母親が新居のインターホンの調子がおかしいからと修理を呼んで立ち会いをさせられたりしたので、自分は荷物を取りに戻ることが出来ないまま、大事なものを勝手に処分されました。自分は姉があんな状態で国立に受かる訳がないと思っていましたので、どこまでも**な思いをさせられました。
高校3年になる前から既に父だけ九州へ単身赴任し一人暮らしをしていたので、たまに母親が向こうへ行って2週間は帰ってこないのでその間に姉と喧嘩になる始末でした。高校卒業して最初の夏休みは父が福岡から大分に転勤になったので引っ越しの手伝いをさせられ、特に友人もいないのでそれだけさせられて終わりました。

就職先は東京の大手タクシー・ハイヤーを運行している会社(有名な5社のうちの1社)に入ったのですが、内定を伝えたらえーちょっとーだの、ヤクザな商売だの、否定的なことばかりネチネチ言われ続けました。
大手なので社内の雰囲気は良かったですし、総合職でも最初はドライバーだったので、英語も必要とする仕事だったので特に海外からの乗客との会話などは他の同期よりはスムーズに出来ていたので、それなりにやりがいを感じていましたが、次第に仕事で行き詰まり、9ヶ月で辞めました。特に、行き詰まる前からしつこく母親から電話やメールが来てあれこれ言われていましたが、何も疑問を抱かず働けばいいのか?と母親に言ったときにはじゃあもう辞めろと言われ、その瞬間一気に糸が切れ、その数ヶ月に退職しました。

辞めた後に仕事で山形県の酒田に引っ越していた親に呼びつけられ、そんな会社などろくな人間が居ないなど、見下した発言ばかりネチネチ聞かされて再就職するようにと言われましたが、突然外資をクビになった人間が身近にいるし、会社員はもうやりたくないと思うようになりました。
その後はしばらく傷病手当金で生活していました。高校卒業して京都に住み始めた頃からすでに精神的にもおかしい状態でしたが、退職してから以前に増して不眠の状態が続き、頭の奥が締め付けられるような痛みが更に増えたので、ついに精神科に通うようになりました。数ヶ月で手当金も打ち切られて生活できなくなり、ほぼ毎日しつこく母親から電話がかかってきて次の就職先は?としつこく言われていましたが、精神科に通っていることを伝えると酒田か祖父母の居る富山に帰るか選べと言われ、どちらを選んでも碌に求人も無く絶望的でしたが、祖父母から面倒を見ろとしつこく言われており、それ以前から母親から将来は年寄りの面倒を見ろ、年寄り共がいつまでも生きていると思うなと言われ続けていましたし、一応孫にも老人介護の義務もあるので自分一人で見なきゃいけないと思い、富山の祖父母の家に行くことになりました。自分が行く前から祖父がリウマチにかかっていて体調を崩し始めていたので、自分一人で見ないと行けないと思ったのでもうそこに行くしかありませんでした。
一緒に住み始めてから早速祖母が急に体調不良になり病院送りになり、祖父が付添で一緒に救急車に乗って行きましたが先に帰ってきて、その後、祖母を迎えに行く際に夕食後で酒を飲んでいるにも関わらず自分の話も聞かずに祖父は勝手に運転して迎えに行くことになりました。横に乗っていましたがフラフラするし本当にぶつかりそうになったので恐ろしい思いをしました。あげく救急車専用の入口に車を停める始末で、受付でそれを職員にべらべら喋って職員の表情が怖くなっていくのを見て、自分だけ罪悪感を覚えました。結局帰りは2種免許を持っている自分が運転して帰りましたが、今思い出しても不愉快極まりないです。母親から聞かされたのですが、最近になって免許を返納したらしいですが、今更そんなことされても遅いとしか思っていないです。両親には祖母が病院送りになった時に電話ですぐに言いましたが、知らんぷりをされました。
その後も段々祖父の体調は悪化していく一方なので、自分が病院の送り迎えや、尿もれするので紙パンツを買いに行ったりしました。これは家族の中では自分だけやりました。

父はMRをしているのでちゃんとした病院を知っている筈なのですが、呉羽(富山市の呉羽地区)の病院に行くようにと繰り返すだけで、呉羽のどういう病院に行けば良いのかちゃんとした説明が一切ありませんでした。結局その地区の病院を自分で調べて診察を受けましたが、薬を渡されるだけで根本的な解決にもなっていなかったので、数ヶ月で他の診療所に変えました。

親戚の中に市議会議員で介護施設を経営している人がいるので、祖父がこき使ってもらえと言って選挙の手伝いをさせられたり、介護施設で働かせてもらえと言って半ば強制的に見学させられたこともありました。両親は来る気など無いので、自分だけ祖父からあっちに住んだりこっちに住んだりと親戚の前で言われ辛くなりました。その後も、祖父母からなぜか介護の仕事をしろとしつこく何回も言われて勝手に祖母が応募したこともありましたが、腰を痛めているし、何よりも鬱状態で介護業界の実態を考えても無理なのは明らかなので結局することはありませんでした。

満足に鬱の治療も受けられないまま早く働けと言われ、結局サポートステーションに通い始めましたが、バイトの面接に行ってもなぜか不採用になるばかりで、やっと自動車メーカーでの洗車の短期バイトが見つかったので祖父に言ったのですが、単純な仕事しか出来ないだの、精神障害者は軍隊だったら即「射殺」と陰で言われたこともありました。
そのサポートステーションでは適職診断と称してどれだけピンを穴に早く入れられるかなど、散々意味不明な事をさせられたあげく、結局紹介された会社は運送や倉庫など、中小企業の肉体労働系ばかり出してきました。その中の一社を受けてその場で採用されましたが、面接の時に入った社長室に創業者?か何か知らないけど無駄に**でかい肖像画を掲げている時点で碌な会社じゃないのは察していましたが、祖父から早く正社員になれるよう努力しろと言われており、もう時間も選択肢も無かったのでそこに行くしかありませんでした。最初はサポートステーションで相談していたのですが、よりによって自分を担当していた職員が途中で退職してしまい、結局他の人にたらい回しにされたこともありました。祖母は昔労基署の職員をしていたのですが、やはり昔の人なので職安は国の機関やからしっかりしとるとか言うばかりで、会話が全く噛み合いませんでした。新聞やテレビで見た目の求人倍率が上がっているのを見て、我々労働者の地位が向上したなどと本気で言っていて呆れました。
母親に言われてその会社に入る前に別居しましたが、出ていく直前に親戚の子の一人が慶応大学に入ったとか他の親戚(顔もよく知らない)が公務員になったとかそんなことばかり聞かされて、不快な思いをしながら祖父母の家を出ていきました。
母親からはやたらと初日は綺麗な服装としつこく言われて仕方なく上にジャケットを来て出社しましたが、倉庫の肉体労働なので着替えている時間もなく、結局ジャケットが汚れました。ちなみに自分と同時に派遣で来た女性とシルバー人材センターから一人来ましたが、浮いているのは自分だけでした。
仕事は雑貨の出荷と入荷でしたが、大量に出荷させては大量に返品の繰り返しで無駄にしか思えませんでした。案の定ブラック中小だったので社員同士の喧嘩、怒鳴り声ばかりで、こちらがわからないから質問をしてもいちいち怒鳴り散らす始末だったのでハローワークの職員に電話で相談したのですが、飯の味がわからなくなってから来いと散々言われたので、二度とハローワークに行きませんでした。
せっかくの休日でも街に行っても寂れていて、シャッター街を頭のおかしい男が奇声をあげながら自転車で徘徊しているし、駅前しかろくな商業施設が無いのですがそこに行っても変な喧嘩が多くていつも警察沙汰になるような田舎で行くところもなく、ろくに息抜きも出来ませんでした。同級生はみんな東京に出ていったので特に誰とも会うこともなく(会いたくない人間ばかりですが)、明日の仕事のことで夜になっても体がぶるぶる震えてほとんど眠れませんでした。
結局その会社は3ヶ月で辞めました。真夏の倉庫で、猛暑の中エアコンも一切無しで作業させられ、暑さで倒れてそのまま行くことはありませんでした。そして、会社から自己都合で辞めろと言われて辞めました。その後は輸入車ディーラーで洗車バイトをしましたが、整備工達からやたらと陰口を言われるし、他のバイトのミスを自分のせいにされるし、1年そこで働いてその後は東京に戻りましたが、時間の無駄にしか感じませんでした。

中学の時は頭のおかしい同級生に変な嫌がらせをされたり、高校も中学時代の一部のおかしいやつに絡まれたりして学校生活も楽しめず、青春が潰れているので二度とあの田舎に住みたくなかったのに、自分ばかり祖父母の様子を見に行くのは苦痛以外の何物でもありませんでした。
結局自分が東京に戻るまで両親が帰ってくることはありませんでした。その後から両親は点数稼ぎなのか年寄りの様子を見に行くようになり、去年の夏はコロナにも関わらず無神経に祖父母の家に来いと言われましたが、感染者の実家が投石や嫌がらせをされて引っ越したことも聞いたのもあり、行くことはありませんでした。いつも自分ばかり当たり前のように呼びつけられるのは不快にしか感じません。姉とは5年以上音信不通なのでいま何をしているのか分かりませんし、母方の従兄弟は自分と違いずっと千葉にいるので滅多に来ません。
去年東京に戻ってきたものの、コロナのせいで何も出来ず、両親から生活費を貰ってほとんど引きこもる日々です。2年半も時間が無駄になったあげく、今更戻ってきて何になるのかわかりません。もう自分のことを知っている人間もいないし、祖母からは友達もおらんしあれこれネチネチ言われていますが、自分の意志でこうなった訳じゃないのにどこまで不快です。
東京に引っ越す直前に年寄りのところにもう最後かもしれないから挨拶に来いと言われて嫌々行きましたが、案の定祖父から曽祖父の50回忌の費用のこととか、親戚が西東京に立派な一軒家を建てたなど、聞きたくも無いことばかり聞かされました。

来年で30歳になりますが、これから先自分に待っているのは祖父母を看取る事と土地の処分、両親の面倒を見ることばかりで、自分の20代の青春が潰れたことを考えると、無理に生き続ける気も起きないです。昔よりは頻度が減ったものの、今でも首を吊ることを考えることがあります。ただでさえここは先進国1の若者自殺大国ですし、今更驚くことでもないと思っていますが。
事ある度に母親が電話してきますが、そう言われたからといって人のせいにするなとまるで他人事のような物言いで逃げられて一方的に電話を切って終わりです。散々あんたらの都合に合わせてただ我慢してきたのに結局この様かと思うたびに今までの事を思い出しながら部屋の中で恨みを大声で叫んでいます。以前、両親と戸籍が一緒なのが嫌で分けたのですが、それが知られて相続のことなどまたネチネチ嫌味を言われました。相続と言っても田舎の古い家の処分なので負債しか無いです。自分だけ頻繁に住むところが変わり、狭いマンションやアパートをコロコロ変わるだけの糞な生活ばかりなのにどこまでも不快です。最初から都内に家を建てていればこんなこともなかっただろうなと思いながら、恨みばかり募ります。
相談者:匿名 さん その他 2021 3/5

回答 1

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長文、拝見いたしました。こんなに長い文章を書くエネルギーに正直、驚きを覚えました。辛い消化されない、くすぶった思いが心に溜まっていたようですね。まず、それらの思いを吐き出しきることは大事なことだと思います。心の掃除のようなものであり、それで心が浄化されたらいいと思います。信頼できる人に話を聴いてもらったり、思いを吐き出したりすることは大事な心の健康維持の方法だと思いますから。

一貫して流れているあなたの気分は親、親戚、社会への不満であり恨みの波長を感じました。
自分の人生なのに親や周囲に影響され、振り回された人生のような感じを受けます。
つまり自分に生きてこなかったということでしょうか。今の現実という結果に責任を持つより、周囲のせいにしているような印象です。それでは、生きる意欲や充実感も喜びも乏しくなるでしょう。

人間は本来自由です。自ら考え判断し行動します。そして最後は責任をとります。それが自立した人間であり、大人ではないでしょうか。つまり、自らの責任のもと自らに生きることです。

過去はありません。ただ記憶に過ぎません。あるのは現在です。今です。今の自分を見つめ、未来を展望し、未来のために今を努力する。今から自分の足でしっかり歩むことです。
それが自分に生きるということだと思います。

「30にして立つ」という言葉があります。人生、決意した時から変わっていきます。後ろではなく、今、そして未来をみましょう。他人や周囲をみるより、自らの現実を見つめ、それをありのままに受け入れることから始めましょう。そこから現実への挑戦、変革も始まると思います。

29歳、まだまだこれからです。
私は、29歳で教師になりました。また教師をしながら、50代半ばで働きながら、通信の大学院に入り、60歳で「臨床心理士」資格をとりました。また、2年前には、若い人に交じって、第一回「公認心理師」の試験にチャレンジし、国家資格をとりました。今、その資格を使って、「大学相談室のカウンセラー」やスクールカウンセラーをしています。

「何のため」という目標が大事だと思います。私の場合は、「利害」よりも、悩める人たちの役に立ちたいという思いの実現であり、努力であり、向上であったと思います。

あなたは、まだ若い、どんなことでもできると思います。この世に生まれた、自らの使命(命を何に使うのか)に思いをはせ、自ら使命に生きられんことを祈っています。あなたには、あなたにしかない、かけがえのない使命があるからです。
回答者: さん 2021 3/6
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